アッツ島の玉砕は、たいてい「兵士たちの勇気」として語られる。
潔く散った、という美しい物語だ。
だが、史料を一手ずつ追うと、別の顔が浮かんでくる。
玉砕は、現場の勇気の問題ではなかった。
上層部の戦略失敗を、思想的に処理するための装置だった。
そして厄介なのは、いったんこの装置ができると、それが同じ失敗を繰り返す許可証になることだ。
勇気の物語は、いつのまにか、失敗の再現装置になっている。
玉砕は戦略失敗の思想的処理装置である
アッツ島で起きたこと
まず、何が起きたのかを押さえる。
1943年5月12日、米軍約1万1千人がアッツ島に上陸した。
守備隊は、山崎保代大佐指揮下の約2600人。
兵力比は、4倍以上だ。
北方軍司令官の樋口季一郎は、増援計画を立てた。
だが大本営は、アッツ島の放棄を決めた。
理由は、ミッドウェー以降の海軍力の低下と、南太平洋方面への戦力集中の必要だった。
樋口は断腸の思いで、「最期の時に至れば潔く玉砕せよ」と伝えた。
5月29日、山崎自ら先頭に立って突撃し、守備隊はほぼ全滅した。
救援を諦めた瞬間に、全滅は決まっていた
ここで見るべきは、玉砕という「決断」が、どこで発生したかだ。
大本営が救援を諦めた瞬間、物理的な必然として、全滅はもう決まっていた。
現場に残されたのは、その必然を実行する時間と、それに与えられる名前だけだった。
それを「玉のごとく美しく砕ける」という美学に翻訳する。
すると、指揮の失敗が、英雄譚に変換される。
意味を失った死に、事後的に意味を付与する。
その制度化が、ここで完成した。
アッツの玉砕は、大本営発表で美化され、喧伝された。
そして、以後のサイパン・硫黄島・沖縄における、同じパターンの雛型になった。
一度この装置ができると、次に同じ状況が来たとき、撤退を選ぶことは「先に散った英霊への裏切り」になる。
美化装置は、同種の失敗を繰り返す許可証として、作動し続ける。
現場と大本営では「玉砕」は別の出来事だった
もう一つ、見逃せないものがある。
認知の非対称だ。
大本営から見た「玉砕」と、現場の兵士から見た「玉砕」は、まったく別の出来事だった。
前者にとっては、戦略の思想的処理。
後者にとっては、物理的な死。
両者を同じ「玉砕」という言葉で束ねること自体が、装置の一部だった。
この構造は、権力の非対称関係における認知のずれと同型だ。
キスカ島撤退は例外だった
撤退成功の三要素
同じ時期、同じ日本軍のなかで、対照的な作戦が動いていた。
キスカ島からの撤退作戦だ。
指揮を執った木村昌福少将は、「濃霧が出ている時しか勝負の時はない」として、気象条件が揃うまで待った。
7月に一度出撃するが、霧の状況を見て、途中で引き返している。
「帰ればまた来ることができる」と語ったと伝えられる。
科学的な気象予測も活用された。
気象担当の士官が立てた「プラス2のセオリー」、つまり北千島の濃霧が2日後にキスカ島周辺へ到達するという予測。
それに沿って、7月29日の突入が決められた。
予測どおり濃霧の中で、約5200名の守備隊が、1時間で収容された。
偶然の助けもあった。
米艦隊が補給のため一時的に包囲を解いていたことは、後日判明した幸運だ。
合理性は当時の日本軍にとって希少資源だった
キスカの成功で強調すべきなのは、木村個人の英断そのものではない。
同じ組織が、同じ時期に、両極端の判断様式を並行して見せたことだ。
一方で玉砕を制度化し、一方で撤退を成功させる。
この分裂が、何を意味するか。
当時の日本軍のなかで、合理性が希少資源だったこと。
そして、その配分がほとんど属人的だったことだ。
木村のような判断は、「例外」だったからこそ生き残った。
もしそれが主流の判断様式だったなら、玉砕の美化装置は、最初から起動しなかったはずだ。
海軍善玉論と、システムの病理の不可視化
海軍善玉論の根拠と、その見直し
この「合理的な例外」の話は、戦後、もっと大きな物語に接続される。
「海軍には合理的な人が多かった」という印象だ。
そして、その印象には、根拠となる事実がある。
米内光政、山本五十六、井上成美。
「海軍良識派」あるいは「条約派」と呼ばれる三人は、日独伊三国同盟に強硬に反対し、対米戦争にも消極的だった。
山本の「一年や二年なら随分暴れてご覧に入れます。しかし、二年三年となれば全く確信は持てぬ」という言葉は、米国の工業生産力を熟知した上での、冷徹な予測だった。
構造的な理由もある。
海軍はハードウェア依存の軍種(戦艦・空母・航空機)で、精神論では動かない。
英国海軍をモデルに発展し、多くの士官が留学経験を持っていた。
艦艇運用は、気象・海流・燃料計算など、定量的判断を日常的に要求する。
キスカの木村の判断様式にも、通じるものだ。
だが、ここで話を止めると、危うい。
1960年代以降、歴史学界では「陸軍悪玉・海軍善玉論」の見直しが進んでいる。
永野修身軍令部総長は、1941年夏の段階で早期開戦論を主張していた。
嶋田繁太郎海相も、開戦直前の10月末には開戦支持に転じている。
海軍が陸軍を「引き摺り込んだ」側面すらあった、という研究もある。
海軍良識派自身にも、限界があった。
米内・山本・井上は、「反対はしたが、止められなかった」。
海軍の組織的利害(予算・存在意義)を守るため、最終的に陸軍と歩調を合わせざるを得なかった。
山本自身、開戦に反対しながら、真珠湾攻撃を全力で企画・実行している。
個人としての合理性と、組織人としての振る舞いが、乖離していたのだ。
なぜ「海軍善玉論」が広まったか
にもかかわらず、なぜ海軍善玉論は、戦後に広く流通したのか。
理由は、三つある。
一つ目は、海軍関係者による戦後の著述活動が、旺盛だったことだ。
生き残った海軍士官が、自らの立場から見た戦史を、大量に残した。
二つ目は、東京裁判で陸軍幹部が集中的に裁かれ、海軍が相対的に免責されたことだ。
裁きの構造が、事後の物語の構造を規定した。
三つ目が、最も本質的だ。
敗戦国の集合的記憶として、「誰かが正気であってほしい」という心理的な必要があった。
すべての指導層が狂気に染まっていたと認めるのは、国民感情として耐え難い。
だから、少数の合理的個人を象徴として立て、そこに救済の物語を託した。
個人の英雄物語がシステムの病理を隠す
三つのケースを貫く原理は、こう定式化できる。
組織が集合的に非合理な方向へ進むとき、内部の合理的個人は「反対したが止められなかった記憶」として保存される。
そしてその記憶は、事後的に、組織全体の免罪符として機能する。
「一部の人はまともだった」という物語は、聞くと救われる。
だが、その救いこそが、「では組織全体として、なぜ止められなかったのか」という構造的な問いから、目を逸らさせる。
個人の英雄性に焦点を当てるほど、システムの病理は見えなくなる。
この機構は、太平洋戦争に固有のものではない。
企業の不祥事、行政の失策、プロジェクトの炎上。
どこでも、同じ機構が働く。
「あの人はまともだった」「実は反対する声もあった」という物語は、失敗の直後に、ほぼ自動的に生成される。
そして、その物語が定着すると、組織は同じ失敗を繰り返す許可証を手に入れる。
冒頭の、勇気の物語に戻る。
失敗を美化する装置は、そのまま失敗の再現装置でもあった。
この対称性を見抜けるかどうかが、組織が同じ失敗を繰り返すかどうかの、分岐点になる。
同時代の合理的な個人の総和が非合理を生むと併せて読むと、開戦から敗戦までの意思決定が、一貫した同じ原理の作動として見えてくる。
参考情報
- 防衛研修所戦史室『戦史叢書』:アッツ島の戦い・キスカ島撤退作戦を含む日本側の公刊戦史
