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責任は「取る」ものか 引責辞任が空虚に見える理由を語源と歴史から解剖する

   
責任は「取る」ものか 引責辞任が空虚に見える理由を語源と歴史から解剖するのGPT生成本文インフォグラフィック

引責辞任のニュースを見るたびに、小さなモヤモヤが残る。
誰かが頭を下げ、辞めていく。
けじめはついた、ということになる。
だが、「それで、何が解決したのか」という問いだけが、宙に浮いたまま消えない。

この違和感は、どこから来るのか。
「責任を取る」という、当たり前に使っている言葉。
その語源と歴史をたどっていくと、この空虚さには、はっきりした構造上の理由があることが見えてくる。

「取る・果たす・持つ」が照らす責任の三つの顔

まず、日本語をよく見る。
私たちは責任を、「取る」「果たす」「持つ」と言い分けている。
この使い分けには、はっきりした感覚の違いがある。

動詞ニュアンス
取る事後的・清算的。外部から要求される(引責辞任)
果たす事前に引き受けた約束の遂行。役割や契約に紐づき、終わりがある
持つ状態としての責任。完了しない継続的なコミットメント(親が子に持つような)

ここで、語源が手がかりになる。
responsibilityは、response(応答)とability(能力)に分解できる。
責任の本質を「応答可能性」と置くと、三つの動詞は、応答の異なる時制として読める。
過去への応答、約束への応答、継続する関係への応答だ。

responsibilityとaccountabilityは別物である

英語圏では、さらに二つの概念が区別される。

  • accountability:account(説明・勘定)を差し出す義務。事後的に問われて答えるもの
  • responsibility:説明より手前にある根源的な応答。呼びかけに応じること

引責辞任は、前者の世界に属する。
首を差し出して勘定を清算する行為であり、勘定が合えば、そこで終わる。

後者の原型として、哲学ではよく二つの像が参照される。
レヴィナスの「他者の顔からの呼びかけに応じること」と、ヨナスの「乳児に対する親の責任」だ。
乳児は、説明を要求しない。
その存在によって呼びかけ、親はそれに応じる。
説明が成立するより前に、応答は始まっている。

「責任を取る」への違和感は、この区別で大部分が説明できる。
違和感の宛先は、責任そのものではなかった。
説明と清算で完結する、accountabilityの構造のほうだった。

説明は応答のもっとも安価な形態になりうる

応答は、言葉だけで行うものではない。
むしろ、行動のほうが応答の原型だ。
泣く赤ん坊への応答は、泣いている理由の説明ではなく、抱き上げることだ。
そして、呼びかけてくるものは人間とは限らない。
壊れかけた組織、荒れた土地、未来の世代も、その状態によって応答を求めてくる。

ここから、応答には階層があることが見えてくる。

  • 言葉で応える(説明する)
  • 行動で応える(解決に向けて動く)
  • 存在で応える(応答可能な状態に居続ける)

下に行くほど根源的で、上の層は下の層に支えられて初めて意味を持つ。
だから「説明を尽くしました」は、何も変えずに済ませるための技術にもなりうる。
説明は、応答の中でもっとも安価な形態になりうるのだ。
引責辞任の空虚さの正体の一つは、ここにある。
説明と退場を差し出すことで、解決に向けた行動的応答を、むしろ放棄している。

「責任」は明治の翻訳語である

そもそも、日本に「責任」という言葉は、昔からあったのだろうか。
実は、なかった。
「責任」は、明治期にresponsibilityの訳語として定着した翻訳語だ。
「社会」「個人」「権利」「自由」と、同じ一群に属する。
つまり、この言葉が輸入される前の日本人は、responsibilityという一語のまとまりで、この概念を扱っていなかった。

翻訳以前の語彙群:役儀・義理・面目

翻訳以前、いま「責任」と呼ばれるものは、別々の語彙に分散していた。

前近代の語彙意味現代の感覚との対応
役儀役割に伴う務め「果たす」に近い
筋目・義理関係性の中での応答義務「持つ」に近い
面目・体面共同体に対して立てる顔対応語がない
申し開き事後の説明説明責任
詰め腹強いられた自死による清算「取る」の極限形

こう並べると、「取る・果たす・持つ」という現代の使い分けが、別の顔を見せる。
翻訳語「責任」の下に、前近代の異なる概念群が折り畳まれている痕跡なのだ。
一語に見えて、実際には地層になっている。

引責辞任は「面目を立てる作法」の生き残りである

この地層を掘り当てると、引責辞任の空虚さを、別の角度から言い直せる。
引責辞任とは、「世間に対して面目を立てる」という前近代の作法が、responsibilityの衣を着て生き残ったものだ。
それは問題への応答(解決)ではなく、共同体への応答(場の収拾)を目的とした行為だ。
目的が最初から違うのだから、引責辞任で問題が解決しないのは、当然だった。
空虚に見えたのは、こちらが解決の道具だと期待して見ていたからだ。

垂直型と水平型:東西の責任構造

もう一段、掘り下げられる。
責任観の東西差は、応答のベクトルとして整理できる。
ただし「西洋は個人、日本は場」という図式は便利すぎる。
それぞれの、光と影の両面を見ておきたい。

垂直型:超越的な審級への応答

西洋の責任構造は、垂直型だ。
神、のちには理性や良心という超越的な審級への応答が、構造の頂点に置かれる。
応答の宛先に序列があり、神への応答が、場への応答より上位だと構造的に定められている。

だからこそ、場の全員が「やれ」と言っても、良心が「否」と言うなら、否と言える。
ヴォルムス帝国議会でのルターの「私はここに立つ」や、良心的兵役拒否という制度は、この構造の産物だ。

ただし、影もある。
告白と赦しによって内面が清算されれば、現実の被害がそのままでも責任が済んでしまう構造を持つ。
説明責任の肥大は、この垂直型の退化形態と見ることができる。
もう一つ、垂直型の「良心」は訓練された審級であって、単なる個人の感想ではない。
「良心が否と言っている」と「私が嫌だと感じている」の区別がつかないと、独善に転落する。

水平型:場への応答

日本の責任構造は、水平型だ。
役儀・義理・面目は、すべて場への応答だ。
これは未熟な倫理ではない。
和辻哲郎が「間柄の倫理」として理論化した、一つの完成された倫理思想だ。

しかし、上位審級の席が空席のため、影が出る。
場全体が狂ったときに、「否」と言う足場が構造的にない。
丸山眞男が「無責任の体系」と呼んだもの、つまり戦争において誰一人「私が決めた」と言わなかった構造は、ここから生じる。

第三の基準:応答は事象に届いているか

重要なのは、垂直型と水平型のどちらが優れているか、ではない。
どちらの型も、退化すると解決から乖離するという、同じ病理を示す。
垂直型は内面の清算で完結し、水平型は場の収拾で完結する。
そしてどちらも、壊れた当のものは、壊れたまま残る。

だとすれば、責任の実質は、宛先の構造(垂直か水平か)では決まらない。
応答が、出来事そのものに届いているかで決まる。
「引責辞任では解決しない。解決することが本来の責任だ」という直観は、東西どちらの型にも回収されない第三の基準、すなわち事象への応答を指していたのだ。


冒頭の、宙に浮いたモヤモヤに戻る。
あれは、認識の誤りではなかった。
引責辞任は、そもそも解決ではなく、場の収拾を目的とした別の行為だった。
解決の道具として見ていたから、空虚に見えた。
それだけのことだった。

ただし、この結論には続きがある。
「解決することが本来の責任だ」という原則を貫くと、今度は別の問題が立ち上がる。
応答する当人が、壊れるまで降りられなくなるのだ。
その行き止まりについては、壊れるまで降りられない人へ 責任の「安全弁」という考え方で扱う。

参考情報

  • エマニュエル・レヴィナス:他者の顔からの呼びかけと責任
  • ハンス・ヨナス『責任という原理』:乳児に対する親の責任を原型とする責任論
  • 和辻哲郎:「間柄の倫理」(人間=人の間、責任は関係の中にある)
  • 丸山眞男:「無責任の体系」(戦後の戦争責任論)
  • マルティン・ルター:ヴォルムス帝国議会(1521)「私はここに立つ」

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