作ったときは、たしかに必要なルールだった。
それが数年後には、誰も目的を説明できない儀式になっている。
どこかで判断を誤った人がいるはずだと思って経緯をたどっても、そういう人は出てこない。
この気味の悪さは、運用の怠慢では説明がつかない。
制度は、導入した瞬間から本来の目的を離れていく力を内側に持っている。
劣化ではなく、仕様である。
制度は150人を超えるために生まれた
顔が見える範囲に、法律は要らない
ルールがなくても回っている集団を、誰でも一つは知っている。
家族、部活、10人程度のチーム。
誰が何をしたかは全員が見ているし、約束を破れば次から声がかからない。
それだけで秩序は保たれる。
この方式が効く範囲には、上限があると言われている。
人類学者ロビン・ダンバーが示した、人間が安定した社会関係を維持できる人数、およそ150人。
それを超えると、顔も評判も知らない相手と協力しなければならなくなる。
裏切られたときに評判で報復する回路が働かない。
だから、信頼を人間関係の外側に預ける装置が要る。
法律とは、その装置である。
法律が定めているのは正しさではない
では法律には、正しいことが書いてあるのか。
奴隷制は合法だった。
女性に参政権がないことも合法だった。
どちらも、当時の法体系の中では何の不備もない。
法律には、はじめから二つの顔がある。
正義や権利の理念を形にしたものという顔と、既存の権力構造を固定し正当化する道具という顔。
自然法論と法実証主義の対立は、この二重性をそのまま映している。
法律は正しいことを定めているのではなく、その時代の合意の境界線を引いている。
そして境界線そのものが、常に闘争の対象になっている。
一言で書くなら、法律とは、暴力によらずに紛争を処理するための、暫定的な合意の形式化である。
重いのは「暫定的」のほうだ。
完成物ではなく、常に更新されつづけている社会契約の現在形にすぎない。
指標が目標になった瞬間に腐る
検挙率を上げても治安は良くならない
制度が暫定的なものなら、まずくなったところを直せばいい。
実際、法律は改正され、組織は再編され、KPIは見直されている。
それでも腐る。
腐り方には名前がついている。
グッドハートの法則。
1975年に経済学者チャールズ・グッドハートが金融政策について書いた原型は、もっと素っ気ない。
観測された統計的規則性は、制御目的の圧力がかかった途端に崩れる傾向がある。
広く知られている「指標が目標になった瞬間、それは良い指標でなくなる」のほうは、人類学者マリリン・ストラザーンが1997年に言い換えた形だ。
言い換えのほうが有名になったのは、原型が金融統計に限った話に見えるのに対して、こちらは組織で起きていることをそのまま指しているからだろう。
警察の検挙率で考えるとわかりやすい。
検挙率は本来、治安の状態を外から推し量るための代理変数だった。
それが評価基準になると、行動の目的が入れ替わる。
治安を良くするためではなく、検挙率を上げるために動くようになる。
立件しやすい軽微な事案に資源が集中し、手間のかかる重大事案は着手が後回しになる。
統計は改善し、実態は悪化する。
企業でも壊れ方は同じだ。
売上KPIを追えば顧客満足が削られ、コスト削減KPIを追えば品質が落ちる。
ここで注意したいのは、指標の選び方が下手だったわけではないことである。
測って評価に使った時点で、測られる側の行動は必ずその指標に最適化される。
逸脱は指標の失敗ではなく、指標が効いていることの証拠ですらある。
各部門が正しく動いた結果、誰も望まない方向へ進む
ここまでは指標一つの話だ。
組織では、これが何十本も並列に走る。
営業は売上を、製造は原価を、法務はリスクを最適化する。
どれも部門の中では正しい判断であり、担当者を呼び出して問い詰めても落ち度は出てこない。
その総和が、全体として誰も望まなかった場所に着地する。
合成の誤謬、あるいは部分最適の総和は全体最適にならない、と呼ばれてきた現象である。
個々の合理的な判断が集合として非合理を生む構造は、開戦に至る意思決定にも同じ形で現れる。
責める相手が見つからないことが、この種の失敗の特徴だ。
ではKPIをやめればいいのか。
やめられない。
測定しない組織は動かないし、何を測るかを決めることがインセンティブ設計そのものでもある。
比較的うまく回っている組織は、KPIを目標ではなく異常検知のシグナルとして扱っている。
数字が落ちたことを罰の根拠にせず、見に行く理由にする。
ただしこの使い分けは、運用者の知性と自制に完全に依存している。
明文化した瞬間に、今度は「シグナルとして正しく使えているか」を測る指標が生まれる。
腐敗を防ぐための仕組みが、また腐る。
150人に割り戻しても、一階層上で同じことが起きる
ここまで来ると、素朴な解決案が浮かぶ。
制度が要るのは150人を超えるからだ。
ならば、あらゆる組織を150人以下に割ってしまえばいい。
実際にやっている企業がある。
ゴアテックスで知られるW.L.Gore社は、一つの工場の人数が約150人を超えると分割する方針を実践してきた。
これは創業時からの設計思想として持ち込まれたものではない。
創業者ビル・ゴアは、何度やっても150人あたりから組織がぎこちなくなった、と試行錯誤の経験として語っている。
軍隊の中隊もおおむね100〜200人で、英語では company と呼ばれる。
顔が見える範囲が機能単位の上限だという経験則は、業種も時代も超えて繰り返し現れる。
うまくいきそうに見える。
ところが、150人のユニットが二つできた瞬間に、ユニット同士の連携という新しい問題が立ち上がる。
そこには顔の見える関係がない。
だから調整のための制度が要る。
一階層上で、最初から同じ問題がやり直しになる。
この形は政治にもある。
連邦制は、小さい単位の自治を保ったまま全体を運営するための設計だ。
そして上位の調整機構は、時間とともに肥大化し中央集権化していく傾向を持つ。
EUもアメリカ連邦政府も、その経路をたどってきた。
分割は問題を消さない。
一段上へ移すだけである。
だとすれば、最初の問いの立て方が間違っていた。
どうすれば制度なしでやれるか、ではない。
150人は信頼ベースの運営が可能な限界であり、それを超えたら制度ベースの運営は避けられない。
そして制度は必ず逸脱する。
この二つはどちらも人間の認知の限界に根ざしていて、技術や思想で越えられる種類のものではない。
残る問いは、制度が逸脱し始めたことをどう検知し、どう直し続けるか、のほうだ。
この視点に立つと、法改正も組織再編もKPIの見直しも、失敗の後始末ではなくなる。
経年劣化に対する定期点検になる。
設計しきれないものを設計しようとして壊すのではなく、設計が必ずずれることを前提に、ずれを測る間隔のほうを決める。
冒頭の、誰も目的を説明できなくなったルールに戻る。
あれは誰かが判断を誤った跡ではない。
点検されないまま置かれた時間の長さが、そのまま表示されているだけだ。
一つだけ、決着のつかない問いが残る。
逸脱を検知する仕組みそのものを、制度にできるのか。
それとも、最後は人間の判断に依存し続けるのか。
ここまでの議論は後者に傾く。
制度化した検知装置は、それ自体がまた指標を持ち、また腐るからだ。
腐らない部品を作れないのなら、腐ることを前提にして点検の頻度を上げるほかない。
参考情報
- ロビン・ダンバー:人間が安定的な社会関係を維持できる上限は約150人(ダンバー数)
- チャールズ・グッドハート(1975):原型は「観測された統計的規則性は、制御目的の圧力がかかった途端に崩れる傾向がある」。広く知られる「指標が目標になった瞬間、それは良い指標でなくなる」は、人類学者マリリン・ストラザーンによる1997年の一般化
- W.L.Gore & Associates:工場を約150人で分割する運営方針(創業者ビル・ゴアの証言による)
- 自然法論と法実証主義:法の正当性の根拠をめぐる法哲学上の対立
